東亜道路工業の歴史

  ■1923年 関東大震災  ■1924年 道路法成立、明治神宮外苑舗装着手  ■1929年 世界大恐慌  ■1925年 東京・大阪・横浜に日本初の自動式公衆電話が登場  ■1930年 東京・日比谷交差点に初の自動交通信号機登場  ■1931年 満州事変

  ■1923年 関東大震災  ■1924年 道路法成立、明治神宮外苑舗装着手  ■1929年 世界大恐慌  ■1925年 東京・大阪・横浜に日本初の自動式公衆電話が登場  ■1930年 東京・日比谷交差点に初の自動交通信号機登場  ■1931年 満州事変

  ■1923年 関東大震災  ■1924年 道路法成立、明治神宮外苑舗装着手  ■1929年 世界大恐慌  ■1925年 東京・大阪・横浜に日本初の自動式公衆電話が登場  ■1930年 東京・日比谷交差点に初の自動交通信号機登場  ■1931年 満州事変

1930年代

大正、昭和、平成。90年あまり日本の道を造り続けてきた東亜道路工業の黎明期。

ビチュマルスで舗装された道路(1928)

創立|1930年(昭和5年)日本ビチュマルス株式会社を設立。

日本ビチュマルス株式会社(現・東亜道路工業株式会社/1951年に改組)の設立は、昭和5年11月28日。前身となった日本液体アスファルト工業株式会社の営業資産を継承する、日米合弁会社として誕生。アスファルト乳剤「ビチュマルス」の製造販売会社でした。

横浜工場(1929)
大阪工場(1934)
日本ビチュマルス(株)本社(1930)

創立前史

大正8年4月11日に道路法が公布され、道路整備が進められるようになりました。当時の東京市内の自動車数は1万台程度でしたが、ほとんどの箇所が砂利道で、車が巻き上げる泥と埃が問題となっていた時代です。

コンクリートやコールタールが使われていた日本の道路に舗装用乳剤を初めて輸入・紹介したのが、東亜道路工業の母体である太平洋貿易合資会社(大正5年設立)です。道路用アスファルト乳剤の導入によって簡易に舗装できるようになり、大正12年に起きた関東大震災後の復興事業では大きな役割を果たしました。その後、昭和3年に、アスファルト乳剤「ビチュマルス」の販売元である米国International Bitumen Emulsions Corporation(IBE)社と提携して、日本液体アスファルト工業株式会社が誕生し、本格的にビチュマルスの製造販売が始まりました。

雑誌「道路の改良」(昭和3年10月)に掲載されたビチュマルスの広告

昭和初期の道路

昭和初期日本の道路舗装風景

牛を引いて歩いている人達がいるなか、つるはしで道路を掘り起こし、ペリカン(じょうろのような乳剤散布器)でアスファルト乳剤舗装を施工しています。当時としては道路舗装技術の最先端でした。

昭和初期アスファルト乳剤製造

当時1m²当たり1円で舗装できたことから「1円舗装」のキャッチフレーズで売りに出されていたアスファルト乳剤のビチュマルス。

昭和初期のアスファルトプラント

当時、加熱合材混合用に使用していたアスファルトプラント。

《東京丸の内》

《東京目黒町》

《神奈川六郷橋》

《横浜正金銀行前》

《山下町本町通》

《山下町水町通》